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成瀬台地域の紹介

成瀬の歴史

※本文は、成瀬台二丁目自治会40周年記念誌より転載しております。

はじめに

成瀬台の開発が始まり約50年、2丁目の自治会が発足して40年を迎えることになりました。

開発後の歴史は、色々語り継がれていますが、それ以前のことはあまり知られていません。しかし成瀬に人が住み始めてなんと1万年の年月が経過しているそうです。

私は、歴史学や、考古学の専門家ではありませんが、自分の住んでいる【成瀬】は、昔はどんなところだったのだろうかと思い、図書館にある郷土誌(成瀬、町田地方史研究、町田風土記、つくられた縄文時代等)を調べ、自分の興味のある所だけをとりあげました。

1万年前から現代にいたる町田特に成瀬の歴史をまとめてましたが、学術的には怪しげな点が多々ありますが、ご容赦ください。

成瀬の縄文遺跡

多摩地区はもともと縄文時代の遺跡の多いところで、町田市にも確認されているだけで、約900ヶ所以上、ここ成瀬地区でも30ヶ所の遺跡があるそうです。

そのほとんどは、開発の波にのまれ破壊されていますが、一部は埋め戻されて、地面の下に眠っています。

御嶽堂遺跡から出土した土器(約5500年前)

              

現在確認されている成瀬の主な遺跡は、1万年から5千年くらい前の成瀬台4丁目の御嶽堂遺跡、6-7千年前から平安時代にかけての東雲寺遺跡、同じくなすな原遺跡(南成瀬から長津田の東急車両基地にかけての大規模遺跡)、4-5千年前の高ヶ坂遺跡などがあります。

高ヶ坂遺跡の住居あとだけは成瀬街道を通るバスの窓から見ることができますが、他は

破壊され何も残っていないものが多いようです。

これらの遺跡は、縄文から平安までと年代の幅が広く、石器、土器、住居あとなどが見つかっています。

特になすな原は、日本でも有数の遺跡で年代は異なりますが、縄文から古墳時代までの100を超える住居跡が見つかっています。

一番気候の温暖だった縄文中期(4-5千年前)の町田市の人口はたぶん200-300人程度、この人たちが20-30人のグル-プで恩田川や境川などの住みやすそうな斜面で集落を営んでいたと思われます。恩田川のうなぎや鯉、イノシシや鹿、それにどんぐりなどの木の実などを煮たり焼いたりして、結構豊かな食生活をしていたようです。

なすな原では、動物を捕らえるための落とし穴も多数見つかっています。

弥生時代

成瀬周辺ではあまり見つかっていません。

古墳時代-奈良時代

このころになると稲作が、定着してきましたが、大規模な開発はできないので、谷戸田(小さな谷間添いの小川の周辺を開拓した田んぼ、奈良谷戸、熊ケ谷戸等)が中心でした。

人口も奈良時代になると縄文時代の10倍くらいとなり、町田市の人口も2-3千人となったのではと思われます。有力者と思われる人達のお墓が集落の近くに作られてきました。

 三輪の西谷戸横穴墓(7世紀前後)

このころの遺跡として、成瀬が丘のがんがん山横穴墓、三輪の西谷戸横穴墓、尾根道の横浜側(ツタヤの裏)の熊ケ谷横穴墓などがあります。住居跡としては、東玉川学園、南大谷遺跡などがあります。

成瀬周辺の城

成瀬周辺にお城があったというと多くの方は驚かれると思いますが、日本全国には3万とも4万ともいわれる城があります。勿論江戸城や、姫路城のような近世城郭ではありませんが、この周辺でも、成瀬城、三輪城、恩田城、小野路城、小山田城などがあります。

〈成瀬城〉

会下山橋近くの城山公園が跡地、恩田川、古鎌倉街道をのぞむ、平安末期横山党鳴瀬氏の居館、のちに戦国期の後北条氏の小机城の支城。井戸、土塁などが残っています。

 

    会下山橋から成瀬城を臨む、向かって左

〈恩田城〉 

15世紀初めに滅んだ恩田氏の館跡、成瀬街道の長津田駅に行く交差点堀の内の付近500mにわたる空堀が発掘されましたが、今は開発され、何も残っていません。

〈三輪城〉

TBS緑山スタジオの先、今でも曲輪、土塁跡が良く残っており、小机城の支城でした。

中世の鎌倉街道

鎌倉街道はいざ鎌倉というときに東国の武士たちが駆けつけた街道で、いたるところに張り巡らされています。この付近でも長津田から吹上、東雲寺脇を通り成瀬地区センターの裏側、高ヶ坂、を経由し大谷原、本町田、府中へと続く道で、道幅3メートル程度の細い道です。

途中鞍掛という地名がありますが、これは、畠山重忠(新田義貞とも)が鎌倉に向かった際に、馬の鞍を松にかけて休んだので鞍掛という地名になったそうです。

また鎌倉街道を本町田方面に進み、菅原神社の近辺は、井出の沢といい1335年足利直行と北条時行が戦った井出の沢の戦いの跡地になっています。

江戸時代

戦国期の後北条氏の支配から、徳川氏の天領となり、成瀬は、旗本の井戸氏、三田氏、久留氏の3人の支配地となりました。石高は710石、町田地区では1,2の取れ高で裕福な村だったようです。人口は300-400人、米、麦、野菜、炭などが主な産物でした。

一方、自然災害もあり、1703年大地震、1715年富士山噴火、1783年浅間山噴火、その他台風や干ばつにも悩まされたようです。

成瀬体育館のそばにある堂乃坂公苑―入場無料

幕末、井戸弘道は、浦賀奉行となり、久里浜でぺリ-の国書を受取ったことで知られています。明治になり夫人と子供が成瀬駅近くの穀物蔵跡地に屋敷を構え終生過ごしたそうです。今は、『堂乃坂公苑』として一般に公開されています。

明治・大正・昭和

人口は徐々に増えていますが、明治初め700人、大正期1000人、昭和20年代1500人程度でした。

このころの主な産業は、米、麦、野菜のほか、炭焼き、養蚕などがありました。

今でも成瀬は、豊かな自然が残っていますが、イノシシ、鹿、タヌキ、キツネ、カワウソ、イタチなどが住んでいて、イタチやカワウソ、キツネなどは大正のころまでいたようです。

また恩田川にはうなぎ、なまず、こいなども多くいました。植物では、カタクリ、キンラン、ギンラン、エビネなどの山野草も昭和40年代頃までは、多く見られたようです。

  東雲寺境内にある芭蕉の句碑

明治から大正にかけて歌舞伎や義太夫が盛んになり、成瀬の人の楽しみだったそうです。また江戸時代から、俳句もなかなか盛んだったようで、成瀬街道吹上バス停の近く(今は東雲寺参道脇に移設))に芭蕉の句碑が残っています。

  【旅人とわが名呼ばれむ初時雨】

明治以降の成瀬の出来事を年表風にまとめると次の通りです。

1873(明6)東雲寺を借り成高学舎(南2小)開校
1908(明41)横浜線開業(八王子と横浜を結ぶ、生糸の輸出に使われた)
1923(大12) 関東大震災で17戸全壊
1927(昭2)小田急線開業
1952(昭27)成瀬にバス開通
1955 (昭30)成瀬に電話がはいる。
1960年代成瀬台開発始まる
1975(昭50) 成瀬台小学校開校
1976(昭51)第1回 なるせだいまつり開催
1977(昭52)成瀬台集会所開所(今のゆりの木会館の場所)
1978(昭53)成瀬高校開校、成瀬台郵便局開局・成瀬台2丁目自治会発足  
1979(昭54)成瀬中央小学校、成瀬台中学校開校・横浜線成瀬駅開業
1982(昭56)成瀬台駐在所開所
1983(昭58)つくし野行きバス開通
1986(昭61)成瀬台2丁目バス停新設
1990(平2) 昭和薬科大学開校
1992 (平4)中央集会所開所
1996(平8)2丁目自治会 自主防災隊設立
2001(平13)ゆりの木会館開所
2018(平30)2丁目自治会40周年

以上、成瀬の歴史を振り返ってみました。これからどのような街を作ってゆくか、私たち

一人一人が真剣に考えてゆく必要があると思います。

40周年記念誌 編集委員 柳田 和雄

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